P.J.プロビー:経歴



 後のP.J.プロビー、「ジェームス・マーカス・スミス(James Marcus Smith)」は、1938116日、テキサス州ヒューストンのセント・メリーズ病院で産声を上げた。
 少年時代のジム(P.J.)は、当時アメリカ南部では、偏見の強かった黒人音楽から多大な影響を受ける。4歳のとき、ジムは、最初のレコーディングともなる、「Roll out the barrel」という歌を録音している。
 はじめてコンテストに出場したのは、彼が10歳のとき、地元ヒューストンのクラブ、「ヒッチング・ポスト(The Hitching Post)でのことだった。歌うことに運命を感じながらも、ジムは、高校までは卒業するという両親との約束を果たし、イリノイ州アルトンの「ウエスタン・ミリタリー・アカデミー(Western Military Academy)に進んだ後、13歳のとき、テキサスの「サンマルコ・ミリタリー・スクール(San Marco Military School)に入学する。

 1960年、ジムはバンド Hollywood Argyles に参加。そこで彼は、ビッグ・ヒットとなる曲「Alley Oop」を書き上げる。ある日、エディ・コクラン(Eddie Cochran)のガールフレンドのシャロン・シーレイ(Sharon Sheeley)が、「サン・ディエゴにいる友達が、“P.J.プロビー(P.J.Proby)”と名乗っているのだけど、その名前を使う気はないか」と尋ねる。そしてその日から、ジムは、「P.J.プロビー」と呼ばれるようになった。
 1961年、リバティ・レコーズが、最初のプロビー(P.J.Proby)のシングルとなる「Try To Forget Her/ There Stands The One」をリリース。プロデューサーは、ディック・グラサー(Dick Glasser)、バッキング・ヴォーカルは、ジョニー・マン・シンガーズが務めた。プロビーはまた、セッション・シンガーとしても忙しく、スタジオで、BBキング(BB King)やジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)、リトル・リチャード(Little Richard)などとも一緒に仕事をしている。しかし、当時の彼の夢は、ソロ・シンガーとして有名になることであった。
 1962年、ジャッキー・ド・シャノン(Jackie De Shannon)とシーレイが、プロビーに曲を提供する。「The Other Side Of Town」である。(これは、ディック・グラサーの「Watch me Walk Away」とのカップリング・シングルとなった。)良い曲であったにも関わらず、大衆には、残念ながらうけなかった。
 1963年、カントリーとウエスタンの曲「So Do I / I Can't Take It Like You Can」がリリースされる。曲を書いたのはシャノンで、シャノンは後にプロビーを有名なプロデューサーのジャック・グッド(Jack Good)に引き合わせている。
 1963年の後半、グッドはブライアン・エピスタイン(Brian Epstein)の頼みにより英国を訪れ、特別番組「Around the Beatles」を製作する。そのとき、グッドは「Smith / Proby / Woods」のデモ・テープを持参。英国ではじめて、プロビーがオン・エアされることになった。
 このプロモーションが功を奏し、プロビーの「Hold Me」は、英のヒット・チャートの第3位までのぼりつめる。(「Hold Me」は、1939年のバラードをプロビーがカバーした。)同じスタイルで、「Together」もリリースされ、それはチャートの8位まで上がった。両シングルは、ヨーロッパではデッカ(Decca)からリリースされた。が、プロビーは、当時、リバティと契約していたため、リバティはデッカと法廷で争い、リバティが勝訴することとなった。
 1964年、リバティ・レコーズは、英国で「I Am P.J.Proby」と題したLPを発売。このアルバムからは、依然として、アメリカのソウルとロックの影響が色濃く感じられるものの、同時に、ポップ色も強く入っていた。
 1965年、メロディックな曲とバラードを集めた2枚のLP:「P.J.Proby」と「P.J.Proby In Town」がリリース。ジョニー・スペンス(Johnny Spence)とレズ・リーズ(Les Reeds)によって、プロデュースされた。これらのアルバムには、「I Will」「My Prayer」「To Make A Big Man Cry」「What kind of |Fool Am I」「If I Loved You」・・・等の楽曲が含まれていた。当時を振り返って、プロビーはこう語る。「聴衆にできるだけ近付きたかったんだよ。ステージの幕が上がる前から、ウォーミング・アップとして、観客には俺の声を聞かせて、それから、ゆっくり手を見せ足を顕わす。幕が上がり切ったら、一番のヒット曲を歌って、そうするともう観客は興奮の坩堝さ。バラードをロックのように歌ったこともあったし、セクシーなダンスを見せたこともあったさ。そうするうちに、ほかの連中まで、俺のやってることを真似するようになったんだよ。頭にきたけど、でも俺は俺なりの新しい方法を見つけては披露していったよ。ま、でも、最後には全部やめちまったけどな。」

 1965129日。ロンドンのクロイドンで行われたコンサートで、プロビーは、着ていたベルベットのズボンを引き裂く。プレスには事故だったと説明したが、2日後、また同じことが起こり、聴衆は一様に興奮することとなった。しかし、子どもをコンサートに送り込んでいた親たちは、プロビーに対して次第に批判的になってくる。
 親たちのボイコットにより、224日には、プロビーはツアーを続けることが不可能となる。これを受けて、リバティは、227日に「I Apologise」と題されたシングルをリリース。このシングルは、メディアでまったく宣伝されなかったにも関わらず、ヒット・チャートの11位にまで食い込むことになった。
 この頃、いくつかの奇妙な記事も書かれるようになった。例えば、ジョン・レノンが「プロビーは、瓶の中のプレスリーみたいだぜ」とコメントしたり、ポール・マッカトニーが「彼の声は、ミッキー・マウスに吠える犬のプルートみたいじゃないか」と言ったとされている。

 P.J.プロビーは、60年代を通してシンガーとしてのキャリアを積み、196511月にリリースされた「magic」は、ファンの心をとらえて離さなかった。また、映画「ウエスト・サイド・ストーリー(West Side Story)」から彼がレコーディングした「Maria」は、最高のヴァージョンと言われているし、いまだにリクエストも多い。
 70年代に入って、プロビーはコンサート活動を中心に行うようになり、またミュージカルにも出演するようになった。ジャック・グッドからの依頼により、ロック・ミュージカル「Catch my Soul(シェークスピアのオセロを原作としたミュージカル)」で、カシオ役で出演したり、また、ロンドンのウエスト・エンドでは、ミュージカル「エルビス(Elvis)」の主役もつとめた。

 P.J.プロビーは、いまだ現役で活動を続ける「巨人」であり、過去に一世を風靡した「伝説」でもある。

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